京狩野初代・狩野山楽(一五五九〜一六三五)は、近江出身。父は浅井長政の家臣で、浅井氏滅亡後は豊臣秀吉に仕えた。その秀吉の推挙により山楽は、十六歳頃に狩野永徳の門人になったと伝えられる。
若い頃には永徳の絵画制作に従い、やがて狩野の姓を許されている。永徳没後も、あふれる才能と抜群の技量によって、有力門人として活躍した。
ところが、元和元年(一六一五)、突然の危機が訪れる。大阪の陣による豊臣家の滅亡である。山楽は、豊臣残党狩りの標的となって命を狙われ、一時期、石清水八幡の松花堂昭乗のもとに身を隠す。
その危機から救ったのは、公家の九条幸家および二代将軍徳川秀忠だった。以降、四天王寺や二条城など徳川家の仕事につく。命をつないだ山楽は、京都で描き続け、濃厚華麗な画風を後継の山雪に伝えていくことになる。
当院に伝わる織田有楽斎像は、狩野山楽によるものである。
織田長益(有楽斎)像 / 古澗慈稽賛、狩野山楽筆 一幅

織田長益(正伝院:一五四七〜一六二一)は、桃山時代の武将。
織田信長の弟で、また有楽斎如庵と号し、利休七哲の一人として、利休なきあと、秀吉の茶の湯をつかさどるなど、茶人として知られる。
はじめ信長のもとで武田攻めなどに参戦、本能寺の変ののちは豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原の戦いには徳川方に与し、戦後大和国で三万石の大名となった。大阪の陣では、冬の陣には大阪城の姪の淀殿のもとにいたが、夏の陣の直前に退去した。
晩年、建仁寺正伝院を再興してここを隠居所に、茶人として余生を送っている。現在、犬山市の有楽苑に移建されている国宝の茶室「如庵」は、長益が正伝院内に営んだものであった。
この画像は、長益の歿した翌年、孫の長好(養子として嫡男となる)が描かせ、古澗慈稽に着賛を依頼したものである。
像は、小袖の上に墨衣を着け、牡丹唐草と雷文繋文の袈裟をかけ、右手に中啓を持って繧繝縁の上畳に坐す晩年の法衣姿にあらわされ、戦乱の世を生きた武将の厳しさが表情に表れている。
一方、同院には、本画像とほとんど同形の木像が安置されており、古澗の『口水集』には長益が良工に命じて自己の肖像を彫らせたことが述べられており、現存像がこれにあたると考えられている。
※参考文献
特別展示会「狩野山楽・山雪」展図録 京都博物館(2013年)より、抜粋。